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◇土肥けんすけ 駄々漏れ追記◇     

◎∈∞∋漫画描きの土肥けんすけの雑記やエッセイ∈∞∋◎

ただただ、佇むのみ。
◇恐らくのところ・・・。

自分は一生、実際にシルクハットをかぶった
人を見ない可能性もあるのですが、もちろん
今までも見たことがないのですけれども―
なのに、見たことがあるような気になっている
わけです。
で。同じように、空の果てが宇宙に繋がってる
のを見ることが一生ないだろうに、今までも見た
ことがないのですけれども―
見たように思っていることは、共に単なるデータで
知っているという点では、差異がないだろうに
どことなく感情的な残念さに差をつけてる感が
あるのが―・・
すごくいやです。
どっちも、データなのに。

そうやって、感情がデータによって気軽に動か
されることが当たり前になるのが―・・
すごくいやです。
だって、行き過ぎたらパブロフの犬よろしく一定の
パターンの刺激によってヨダレをたらすが如くになる
気がするのです。

言葉でさえ・・。
いえ、基本の言葉だからこそ
「人につけられた味付けの言葉」や
「踏み固められた慣用句」を投げつけられてるのに
自分で考えたように使い、そしてそれが―
そしてその組み合わせが―、感情に結び
「『自分で考えている』と、実は人に考えて貰っている」
という事態に陥っているという状態を、他人の
思考の中に見る時、唖然として、としたら私もなの
だろうかと気持ち悪くなります。
いえ、訂正します。私もそうなのです。
気持ち悪いです。

その、己のブラックボックスの気味悪さと共に
自分の思考への他者の触れ具合が気持ち悪くて
眩暈がします。
どこまでが、自分の本質的な思考の流れとして
過去から蓄積演算フィードバックして現出している
もので、どこまでがお仕着せなのか。
分けられるのか、られないのか。
そも、分ける必要があるのか、ないのか。

それらの思考を洗い直そうとするたびに、当の
表現する言葉を洗い直すことになり、捨てることと
なり、当然の事ながら、その度に使える言葉が減って
いき、そもそも思考について考える言葉自体に疑問が
あるのなら、それを調べるすべはあるのだろうかと
考えて、そして挙句の果てに

「そう考えている自分の思考自体が与えられたもの
ではないか・・・」

と言う―・・

いかにも与えられた思考らしい、腐ったご満悦の
どこかて聞いた慣用句に行きついたとき、

私はただただ、佇んで止まっていくのです。
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